新型コロナウィルス感染症が世界で猛威をふるい、和歌山でも緊急事態宣言が解除されてしばらくが経ちました。和歌山の街は少しづつ風景を取り戻しつつあります。
そんなコロナでおもうことをメモにとっていたので、まとめてみようと思います。
粛々と自分たちができることをする
少しさかのぼって、これはやばいな、と思ったのは3月中ごろ。いよいよ困ったと思って3月24日にSNSの更新を止めました。単純に現場写真を挙げる気になれず。常に足が浮いているような、別の世界に迷い込んだような不思議な感覚でした。冷静に世の中の動向を見ながら、最悪の状況を想定し、まずは自分たちが感染しないように身を守ることを考えました。
3人ともテレビを持っていない(笑)ので、情報源はネットとラジオ。何が正しくて間違っているのか、情報の波に流されないように、適度にいろんなものに距離を取りながら、無理せず、それぞれの時間をもてたことで、粛々と自分たちができることをするということを心がけた数ヶ月でした。(今思い返せば、やっていることはさほど普段と変わらなかったかな。)
みなぼちぼち元気でやっていますが、各自テレワークや現場・全体の進行物件数をセーブするなど、比較的ゆっくりとお仕事させてもらっています。僕はと言うと家族や仕事以外はできるだけ人との接触を減らし、毎日シンプルに事務所と家の往復。ほぼ週1で通っていた映画館に行けないこともあり、その分、本を読んだり、定時に帰って(そんなこと今までなかった!w)料理をしたり、家で過ごす時間が増えました。たまに息がつまってくると人のいない海や山へ散歩しに行きました。流行りのオンライン呑み会もやってみたけど、なんだか浮わついてしまって、終始妙なテンションになり大反省しました。オンライン要注意です。。
さて、お仕事はというと、公共事業や大手ゼネコンでは工事が止まったりあるようなのだけど、弊社のような規模の小さい事務所が抱えている案件では、設備機器が入らなかったり、ビスが品薄だったりくらいで、ほかの飲食店や宿泊、観光業などに比べると大きな変化はなかったですが、5月頭にオープン予定で進めていた2つの店舗が工事は完成したもののオープンが延期したり、企画から参加させて頂いていた催しが延期、Arcadeは森道市場2020が中止したり、と少しずつ影響を受けました。今も変わらず細々とお仕事させて頂いています。
平凡な日常はいつまで続くかわからない
話は更にさかのぼって、小学生のとき大阪で阪神・淡路大震災を経験し、地下鉄サリン事件をテレビで見ながら、東日本大震災では自然の怖さを知り、愕然とただ何もできずに津波の映像を見るしかできませんでした。和歌山でも自然災害を身近で見てきましたが、正直なところ、自分ごととして、現実感をもって見ることはできていなかったように思います。今回のことで、平凡な日常はいつまで続くかわからないのだと気付かされました。
普段から平和ボケしてるつもりはなく、戦争に対する危機感や政治への関心はあったと思うけど、まさかウィルスで社会活動が停止するなんて想像していませんでした。これぞパンデミック。まさにソダーバーグのコンテイジョン!(映画「コンテイジョン」参照)
僕は比較的なんでもポジティブに考えるタイプなのでネガティブになりませんでした。なんとも自然は偉大で、コロナがもたらしていることは悪いことだけではないらしい。人間が一旦活動を停止すると大気汚染が改善されるなど、地球規模では環境に良いことが起きていると言う。ウィルスも視野をひろげると生命の循環の一部で、人間が作り出す世界は異物であり、地球環境の均衡を保とうとしているのでは、なんて考え方もありました。でもそんな作っては捨てるを当たり前にしてきた価値観を変える転換期にきたのかもしれない。年始に投稿した文が的中したのかもしれない。今だからこそ、自分たちの生活・行為が正しいのか、考えなくてはいけない。自然とそう考えるようになりました。
ちょうど時を同じくして、normでの展示があり、岡山から植月大輔さんが来てくれました。どう開催するかをオーナーの坂上さんと話し、模索しました。展示のテーマも相まって、今できることをしようと、オーナーと作家が一緒になることができました。植月さんに作家としての気持ちや作風の変化をお聞きでき、つくるということに向き合って考えられたことは大きかったです。
「 veil 」植月大輔 × haruka nakamura & LUCA
僕たちは建築でなにができるか
設計して建築するという行為がどういうことなのか。これまでやってきたこと、考えてきたことで正しかったのか。そもそも設計は美しい行為なのか。ではなにが美しいのか。人間は愚かな存在で、空気を汚し、自分のことしか考えず、作っては捨て、その大半は醜い。でも新緑や花を見て美しいと思う唯一の生き物。自然や故人が生み出した美しいとされるもので目を養い、なんとしても自らも真似して作りたいと思い続ける運命なのだろう。人間は創造することを辞められないのかもしれない。だからこそ、自分たちの立ち位置を再確認し、もう一度、なぜ作りたいか、考える。僕たちは建築でなにができるか。新しく作りたいものはあるか。自分が作りたいものとは。いや、作りすぎてはないか。では古いものならいいのか。作るのは誰のためか。誰が喜ぶのか。自問自答する。堂々巡りしながら。
この記憶の鮮度を保てるように常に思考を巡らせる
個別に考えて、流されずにそれぞれの答えをだす。これこそが重要であり、勇気をもっていつでも立ち止まって考える、この感覚を忘れてはいけないと思うんです。世の中の評価、いいねや点数稼ぎではなく、自分たちの能力を見極めて必要とされている場所でやるべきことをする。結局は、誰のために何をするべきか。に行き着きます。これまで弊社ではさまざまな仕事をしてきましたし、美しいの基準も喜びのかたちもさまざまだけど、本当にどれも楽しいのです。喜ぶ人の顔や家族が一番で、次の世代に受け継がれるこを想像するためなのでしょう。こういうことがあった時だからこそ、この記憶の鮮度を保てるように常に思考を巡らせておきたい。
そして、免疫力をあげて自らが生き抜く力を育て、蓄える。作ることに目を取られて、これまで置き去りにしてきた自分の身体や家族のこと、生活を見直し、精神に安定を取り戻し、一度きりの人生を悔いがないように生きる。時にロックに!パンクに!ただし、強かに。こうありたいと思います。
すんごい恥ずかしくなってきたのでここらへんで終わりにします!
絶対消したくなるだろうなぁ、まぁ、いいでしょう。
というわけでお元気で。再見!